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段差道路

浦安遺産段差道路

浦安は埋立てにより、その面積を4倍にまで拡大させた歴史がある。この段差道路は、浦安の成長の証ともいえる年輪のような存在である。

昭和39年(1964)に始まった公有水面埋立事業の第一段階目は、 昭和43年(1968)に東野・富岡・今川・弁天・鉄鋼通りが誕生、続く、昭和46年(1971)、海楽・美浜・入船が誕生した。 この新しく生まれた地域と、元からあった場所の境目のほとんどが、 段差道路として存在している。

特徴ある木々が続く道路が段差にしてあるのは、水害を考慮し一段高くしている。

堤防跡地

浦安遺産堤防跡地

上記の段差道路から、更に海側に進むと現れてくるのが、堤防跡地。

左写真中央の堤防を挟み、右側が中町、左側が新町にあたり、公有水面埋立事業の第二段階目が始まるまで左側が海であった。更に言うと写真に写っている中町側も、かつては海であった。

まさに、埋立て計画の遺産のように残され、住宅地をぐるりと囲む堤防は、なぜ撤去されないかという疑問が残る。その答えは、堤防と並行する大きな通り、第二湾岸道路にあるといわれている。住宅街を大きな通りから守るため、そのまま残してあるというが、真相は撤去費用が甚大だからという噂もある。

第二湾岸道路

浦安遺産第二湾岸道路

中町エリアと新町エリアの間にある幅が広い道を第二湾岸道路と呼ぶ。しかし、構想中の道路のため、あくまで周囲がそう呼ぶに過ぎない。

第二湾岸道路は1994年に地域高規格道路に指定されたが、東京湾の天然の干潟『三番瀬』を通る計画のため建設は難航した。 湾岸道路(国道357号線)の慢性的な交通渋滞のため、 新たに東京都大田区、東京ゲートブリッジ、浦安を通り、ぐるりと千葉県市原市を結ぶ計画で、三番瀬を埋め立て道路を作る予定だったが、自然破壊・環境保護が各地で問題になり、その後、計画再開のめどはたっていない。

浦安を南北に走るベルト状の第二湾岸道路は、新しい街に似合わない雰囲気をかもしだしている。

浜野医院

浦安遺産浜野医院

浜野医院がフラワー通りに建設されたのは昭和4年。医院としては昭和21年より開業している。平成8年に閉院するまでは地域の住民に愛され頼りにされた医院であった。その後は、文化財として残され、浦安市の子育て施設として開放されている。

浜野さんで親しまれた浜野久雄氏は、明治20年から3代続く医師で浦安小学校や浦安南小学校の校医も務めていた。浦安の教育委員会の役員なども兼任し浦安のために尽力した人物の1人である。

外見が特徴ある建物はイギリス式を取り入れており、浦安初の西洋建築といわれている。

貝灰工場

浦安遺産貝灰工場

貝灰とは、昔浦安でよく採れたハマグリ、アサリ、バカ貝などの殻を高温の 窯で焼き、ふるいにかけてつくった粉を指す。

見た目は小麦粉によく似ているが、用途は 家屋の壁など建築用材量として利用し、耐火耐熱に優れとても重宝された。東銀座にある元歌舞伎座の壁もこの浦安産の貝灰を使っているという。

貝殻の豊富な浦安は明治14年、当代島にできた貝灰工場を皮切りに、各地に建設された。猫実の左右天命弁財天周辺は『灰やのくるわ』と呼ばれ、大きな工場があったといわれている。

貝灰は、その他に農業用の肥料や、戦時中は軍馬のカルシウム補給用に使われていた。その後、漁業権放棄に伴う貝類の漁獲減少のため工場は次々閉鎖し現在は存在していない。

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