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浦安のアイコン本州製紙江戸川工場汚水放流事件

浦安の歴史 黒い水事件

それは高度成長期がもたらした最悪の公害の一つ、日本が環境を考えるきっかけの事件が勃発した。


四大公害病というものがある。イタイイタイ病、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそくが四大公害を指し、どれもが日本の高度成長期の工業化がもたらした重大な社会問題ばかりだ。 それら、四大公害とほぼ同時に問題になったのが、今回取り上げる、本州製紙江戸川工場汚水放流事件である。

浦安のアイコン事件の記録を振り返る

浦安のアイコン事件の始まり

時は昭和33年4月7日。毎年、陽気が良くなるこの頃は、釣り人や船遊びを楽しむ観光客で次第に町が活気を帯びてくるころだ。いつも通り浦安の漁民たちが漁に向かうと、旧江戸川の水がドス黒く濁っている異常事態が発生していた。浦安沿岸はもちろん、葛西沖までドス黒い汚染は広がっており、魚がいたるところで白い腹を上に向けて浮き、貝類は口を開けたまま死滅していた。

この異常事態で、ただちに漁業協同組合が動き、浦安町から少し上流にある本州製紙江戸川工場から排水されている工場用水であることを突き止めた。このまま工場からの排水が続けば、すべての魚介類が死滅し、海苔養殖にも甚大な被害が出ると、浦安の人口の過半数を占める漁民たちが立ち上がった。

浦安のアイコン事件の経過を詳しく

4月07日 事件発生。旧江戸川の河口や葛西沖までドス黒い水で汚染されているのを確認。
5月19日 浦安の二つの漁業組合は、調査結果を携え本州製紙側に申し入れたが、水質検査の結果を見ないうちでは中止できないと、工場側はこれを拒否。
5月22日 東京都建設局に出向き、本州製紙の汚水放流を中止させるよう陳情するが、同じ理由で断られ、水質調査を約束し帰る。
5月23日 七ヵ浦(浦安、行徳、南行徳、葛西、城東、深川、荒川)の漁業組合は個々に本州製紙側に排水の中止を申し出るが拒否。依然として放流を続ける。
5月23日 七ヵ浦の漁協組合員300人が集団抗議すべく工場に集合すると、目の前でドス黒い汚水放流を目撃、激怒した漁協組合員達は工場の窓ガラスを割り、マンホールに石などを投げ込み排水を止めてしまう。

その後、工場内で工場長らと間に交渉の場が設けられることになった。 本州製紙側は「アユには害があるが、他の魚には害が出ないと思っていた。使用する薬は悪いと思うが、河川に出てしまえば害がなくなると思った。」と述べ、漁業被害に対する補償金は出すから今まで通り工場稼働を続けさせてほしいと訴えた。(この時、工場排水を始めたのが汚染が始まった4月7日ということも証言した。)

漁業組合はこれに納得せず、ただちの工場排水中止、その他の排水も無害にする設備をつけること、今までの被害補償をすることの3つを提案した。 この時、一部の漁業組合員が騒ぎ出してしまったため、途中で散会した。
5月28日 2回目の交渉。本州製紙側は前回の暴動を激しく非難した。これに漁業組合側は、再三の注意にも関わらず排水を止めない本州製紙側が悪いと反論した。

本州製紙側は、被害補償は後日何等かの形で出すが、排水施設に膨大な費用を出したため、今まで通り操業したいの一点張りだった。漁業組合側は、工場排水中止が一番の目的なので、とても了承できなかった。結局、交渉は物別れに終わる。
5月29日 3回目の交渉。本州製紙側は排水施設を無害にする新しい機械をつけても最低でも8月までかかってしまう。新機械の取り付けまで工場がストップしてしまうと会社の経営が困難になってしまうので、今まで通り続けさせてほしいと主張したが、これを漁業組合側は承服できず、新しい機械をつけても害は害だと再び交渉は決裂した。

交渉終了後、一部の漁業組合員は東京都庁に出向き、工場の即刻停止を陳情した。
5月30日 浦安の漁業組合は千葉県庁に出向き、事態の収集を依頼しに行くと、工場側からすでに漁業組合側が条件を受け入れたという話を聞いているとのことだった。もちろん、これは嘘であり本州製紙側の偽造であった。
6月5日 度重なる陳情から、東京都は水質調査を実施、工場の排水管から褐色の細かい錆のような沈殿物を多量に含み、酸化してドス黒い水になっていることが判明。魚介類の死滅に因果関係があることを認めた
6月6日 浦安の漁業組合や、東京都の4つの漁業組合は再度東都庁に出向き、工場排水の停止を陳情した。都庁側の指導部長は工場に電話し幹部を呼び出し、工場排水の停止、漁業組合側と話し合いをするよう勧告した。
その為、本州製紙側は排水を停止し、話し合いがつくまでは操業を停止することを約束した。
6月9日 浦安町では工場排水問題ついて協議会を設け話し合いをしているところ、突然、工場が新しい排水機械を操業するという一方的な通告を受けた。ただちに工場や各関係機関に実情を聞くと、ドス黒い工場排水の放流を確認したとのことだった。

このように、度重なる交渉の結果、東京都の勧告を無視した本州製紙側に、浦安の漁民たちの怒りは最頂点に達していた。そして翌日、6月10日その怒りは最悪の形で爆発するのであった。

浦安のアイコンついに暴動に発展、6月10日というXデーを迎える

6月10日
午前11時
その日は11時から町民大会が起こっていた。約2000人の人々は会場に入りきれず周囲を取り囲むという異常な雰囲気で始まった。

議題はもちろん工場の汚水放流問題で、この日は、大会宣言書、決議文を作成、それらを本州製紙側に提出する目的だった。満場一致で町民大会が終了、宣言書と決議文を携えた約800人の漁業組合関係者はバスに分乗し、国会や都庁に向かった。

国会では理事長に「この汚水阻止に一役買ってやる」と心強い言葉をいただき、都庁では直ちに工場に停止を電話で連絡するとのとだったが、漁業組合関係者は納得せず、直接出向いてほしいと陳情し、これに承諾をもらっていた。 都庁からの帰路、漁業組合関係者はバスを連ねて、宣言書と決議文を直接渡そうと工場に向かった。
午後6時 漁業組合関係者は工場正門に到着した。工場からはモクモクと黒煙があがり反省の色が微塵も感じられなかった。本州製紙側は事前に情報を得ていたようで、正門は鉄扉で固く閉ざされていた。守衛が無断立ち入り禁止と書かれた立札を左右に振り侵入を拒否していた。

これを見た漁業組合関係者達は怒り、鉄扉を押し破り工場内になだれ込んだ。 漁業組合関係者達は「工場は汚水を流すな!俺たちを殺すのか!生きる道を保証しろ!」と叫びながら工場の倉庫や会議室などに投石、窓ガラスなどを破壊し始めた。本州製紙側もこれを阻止ようと漁業組合関係者達ともみ合いを始めた。

工場近くに、本州製紙側の要請で警察官が待機していたが、この騒ぎに出動、漁業組合関係者達と警察官がもみ合いを始めてしまった。警察側はあまりの人の多さに機動隊の出動を要請、ついには警察機動隊と漁業組合関係者達との間に争いが始まってしまった。一時間に及ぶ争いで、双方に多数の重軽傷者が出て漁業組合側に4名の逮捕者が出てしまった。

一旦騒ぎが治まったが、逮捕者が出た漁業組合関係者達は納得しなかった。後日出頭させるから、逮捕された人々を今日はこのまま帰らせてほしいという漁業組合側の懇願も通らず、にらみ合いが続いてしまう。 この時、警察機動隊側は第二機動隊、第四機動隊が集結、装甲車2台まで出動し、物々しい雰囲気に包まれた。
午後9時 浦安町長や大会議長が今日は一旦引き揚げ翌日再び話し合おうと説得を始めるが、頭に血が上った漁業組合関係者達は「逮捕者を返すまで引上げない」と座り込みを始めたしまった。
大勢の機動隊側はそのうち漁業組合関係者達を包囲、門外に押し出そうと再び争いが始まってしまった。
午後10時 ついに警察機動隊側は突撃を決行。ワーッという言葉と共に漁業組合関係者達に突っ込み、見物中の集団や新聞記者たちなど、逃げ惑う人々を容赦なく警棒で殴り、蹴り飛ばされたりして、またもや多数の重軽傷者が出てしまった。
午後11時 漁業組合関係者達は再び工場の門を破り、警察機動隊側とにらみ合いが始まってしまった。素手だった漁業組合関係者達の手には角材や竹竿など武器を手にし、まさに一触即発な不穏な雰囲気に包まれた。

このままでは多数の逮捕者が出てしまうと、関係者の必死の説得が翌日午前1時まで続き、11日の朝再び話し合うということで漁業組合関係者達も納得し、バスに分乗し引き揚げて、この場はなんとか納まった。

この事件により、漁業組合関側は逮捕者8名(翌日釈放)重軽傷者108名、工場周辺住民、新聞記者、カメラマンなど数名も負傷した。警察機動隊側からも36名の負傷者が出てしまった。

浦安のアイコンそして事件の結末へ。

浦安のアイコンこの事件が日本にもたらしたものとは?

今回の事件で国や東京都、千葉県が動き、早速、工場からの排水が無害になるまで、工場は操業を中止ということが正式に決まった。参議院決算常任委員会では今回の事件を取り上げ、参考人に浦安町長、漁業組合関係者が呼ばれ、今後も引き続き本問題を調査・審議することを約束し、調査団が派遣された。

調査によると、工場からの排水は酸性が極めて強く、有機質が普通の水の20倍以上あった。この有機質が多いと水中の酸素を取り込んでしまう作用がある。また、多量の木材繊維が認められ、こらが魚介類に付着し呼吸困難に陥らせていた原因だったのだ。

汚水放流問題は、排水施設の浄化装置の設置、漁業組合関係者への補償などさまざまな問題があったが長い年月を掛けようやく解決した。
昭和33年12月25日、今回の汚水放流事件を契機に国会において「公共用水域の水質の保全に関する法律」が制定された。高度成長を突っ走ってきた日本が初めて環境に対して考えを転化していくきっかけがこの浦安の事件から生まれたのであった。 なお、「公共用水域の水質の保全に関する法律」は『水質汚濁防止法』と名前を変え、現在もしっかり法のもと現行されている。

浦安の歴史 本州製紙工場事件

浦安のアイコン公害を取り上げた貴重な資料

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