町が割れた国際空港建設騒動
住民のほとんどが誘致に賛成した浦安国際空港とは?
成田国際空港が建設される前、浦安市の埋立地に空港ができることが計画されていた。しかも、この浦安国際空港は住民ほとんどが誘致に賛成していたという。
賛成反対で町が二分してしまった空港建設騒動はどのような結末を迎えたのか、そして国際空港はどのような歩みを送ったのかを追跡していく。
事件の記録を振り返る
浦安国際空港計画
当時、羽田国際空港と呼ばれていた羽田空港は増加する飛行機の離着陸にパンク寸前であった。空港機能が麻痺寸前の現状から政府は、東京都心から100キロ以内に第二の空港を作る計画を発表した。
一部情報によると、その第二空港の建設立地候補に浦安の名が挙がったといううのだ。東京に隣接し、空港に通じる高速道路の建設が容易で、何より、何も建っていない広大な埋立地があることが要因だった。
町が2つに割れた空港誘致
これを知って驚いたのが浦安町議会であった。ただちに臨時議会を開催し、第二空港建設問題について話し合った。その結果は、浦安に空港ができてしまうと住民生活に騒音、振動など悪影響がでる、埋立て事業計画が白紙に戻り、さまざまな影響が出るため、空港建設は絶対反対ということになった。
この事を、千葉県知事、運輸大臣、首都圏整備委員長に意見所として提出した。 その後、第二空港建設の話は影を潜めるが、翌年、意外な形で議論が持ち上がった。浦安町住民の第二空港誘致賛成派が徐々に増え、賛成派と反対派で町が2分し始めてしまったのだ。
先に述べた通り、空港ができると、騒音・振動により生活環境が破壊され、浦安の発展、将来が阻害されてしまうと懸念する従来の反対派と、空港誘致により浦安の名を全国に広め、多額の補償金(当時の金で年間50億の諸税)を得ようとする賛成派で意見が別れたのだ。
難航する空港建設
昭和39年7月、衆議院内で会議が行われ、第二の空港(国際空港)は千葉県に建設するのが望ましいと発表し、候補地として、浦安沖(埋立て地)と木更津・袖ヶ浦沖の名前が挙がった。この発表がされると、浦安町内では賛成派が更に勢力を強め、浦安は空港の町という現実味を帯びてきた。(この時、都心から一番近い浦安が候補の一番手だったという)
その後、千葉県から空港の現実的な概要が発表されると、木更津や袖ヶ浦、君津の漁協から猛反対の声が上がった。一方、浦安でも誘致がすでに決まっ ていた東鉄連浦安団地協同組合(鉄鋼団地)が反対を発表。その後も商工会、浦安町周辺の市町村などの猛反対により、賛成派の勢力は小さくなり、結局計画は消滅していった。
空港誘致は千葉県のあちらこちらで起こり、そのたびに賛否両論入り乱れ、時には大論争になり激しい論争が繰り広げられた。木更津、袖ヶ浦、浦安、八街、冨里と迷走した空港誘致は成田に建設が決まったが、その後も建設に至っては御存知の通り、様々な問題が紛失し、大きな社会問題になった。
浦安は飛行機の通り道
騒音問題や安全性は?
その後、2004年に新たな空港問題が浦安市民を不安に陥れた。 羽田空港の拡張と共に新滑走路を建設。その滑走路の着陸態勢に入るルートに浦安上空が含まれていたのだ。
着陸態勢の飛行機のコード は低くエンジン音は騒音となって市民を襲うことになる。年間約2500万人が訪れる東京ディズニーリゾート上空も飛行ルートに入ってい て不測の事態に陥る可能性もある。 千葉だけが今回の飛行ルート案を反対する不利な状況の中、浦安市長はルートの変更を提案などを申し入れている。
浦安国際空港がもし開港していたら?
浦安は騒音などでとても今のような美しい街にはならなかったであろうが、やはり不便を感じる成田空港よりはるかに機能的なっていただろうと感じる。国際線と国内線の行き来も楽だったろうし、利便性が増せばハブ空港として大きな役割を持つ空港になっていたかもしれない。
今の浦安の街並みを見ると建設は現実しなくてよかったと思えるが、ハブ空港として大きな役割を果たせただろう浦安国際空港を想像するのも何となく楽しいかもしれない。
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