空爆の脅威 戦時下の浦安
直ちに防空体制をとれ
昭和16年12月8日未明、太平洋戦争が勃発。正午になると千葉県知事から各市町村に防空実施の命令が下り、浦安町長は町会議員を集め直ちに防空体制化に入った。
警戒警報の時は明かりに覆いを被せ電気は消灯するよう命令され、爆弾の延焼を食い止めるため、空いている桶や容器には常に水を入れる習慣が生まれた。また、浦安橋と行徳橋が落とされると食料供給が途絶えてしまう恐れがあるため、県から非常食の特配が受け町内の倉庫などに備蓄が始まったのもこの頃である。
始まる空襲
アメリカ軍による日本本土空襲は昭和17年4月18日が始まりで、B25中型爆撃機により東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸などが銃爆撃されている。(この時、長距離飛行のため重い爆弾は積めず爆撃は機関銃によるものだった)
その後、昭和19年サイパン島がアメリカ軍に占領されると、日本本土は長距離爆撃機の行動範囲となり、いよいよ本土爆撃が本格化していった。
浦安の空襲状況
以下が浦安でおきた空襲の記録である。(不明な点が多いため一部抜粋となっています)
年号 | 西暦 | 浦安の出来事 |
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昭和19年 | 11月05日 | B29が東京に向けて飛来。被害なし。 |
11月24日 | B29が6回飛来、行徳方面に煙が上がる。 | |
11月27日 | B29が2回飛来、2度の空襲を受ける。(浦安で初めての空襲被害) | |
11月29日 | 米軍機が4回飛来。 猫実の海岸や当代島の耕地に大量の焼夷弾を投下するが被害はなし。 |
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12月03日 | B29が東京を空襲。町内上空で空中戦が行われる。 | |
12月06日~ 12月10日 |
米軍機が6回飛来。 | |
12月27日 | B29が東京を空襲。帰還するB29の2機に葛西の高射砲が命中する。 | |
12月28日~ 翌1月10日 |
米軍機が8回飛来。 | |
昭和20年 | 02月02日~ 02月10日 |
米軍機が92機飛来。 |
2月17日 | 米軍小型艦載機による攻撃を受ける。 | |
2月19日 | 米軍機が19機飛来。浦安上空で空中戦が行われる。 その後、B29機が21機、9機、10機が飛来。東京各地を空襲した。 船橋方面からも10機が飛来し、浦安を攻撃した。 |
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02月24日 | B29が東京を空襲。 | |
02月25日 | B29が東京を空襲。市川も被害を受ける | |
03月04日 | B29が東京を空襲。 | |
03月05日 | B29が8回飛来。 | |
03月09日 | 東京大空襲。2時間に及ぶ空襲により東京が焦土となる。 | |
03月11日 | B29が飛来。 | |
03月18日 | B29が飛来。 硫黄島陥落。この後、空襲が激化する。 |
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03月31日 | B29が飛来。 | |
04月01日 | B29が飛来し、浦安を攻撃。爆弾を投下したが、海岸部だったので被害なし。 | |
04月08日 | B29が飛来し、浦安を攻撃。投下された爆弾は6発。 | |
04月13日 | B29が東京を空襲。 大規模な空襲で明治神宮が炎上し、浦安からも救援舞台が出動する。 |
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04月19日 | P51が飛来。 | |
05月24日 | B29が250機飛来し、東京を大規模攻撃し皇居の一部まで火災が広まった。 | |
05月25日 | B29による波状攻撃を受け、浦安でも大型焼夷弾4発が投下され火災が起きる。 帰還するB29の1機に葛西の高射砲が命中し浦安沖に墜落する。 |
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05月29日 | 東京大空襲に次ぐ大規模空襲。約600機の米軍機が浦安上空を飛来した。 | |
06月10日 | B29が東京を大規模空襲。 |
その後、空襲は断続的に終戦まで続くことになるが、詳細な記録は不明である。(上記以外にも空襲は百数十回にわたると言われている)アメリカ軍のB29爆撃機などによる空襲で浦安町民は61人の尊い命が奪われている。
浦安を襲った空襲の被害
※一部、酷な表現がありますが、戦争という現実を知ってもらうため、あった事をそのまま載せています。
●昭和19年11月27日の空襲
小雨模様の正午過ぎ空襲警報が発令され、B29大型爆撃機の編隊が浦安町上空に飛来し2回にわたって爆撃を行った。1回目は6発、2回目は5発の爆弾が町西部に落下させた。
1つは堀江の銭湯に落下し、家屋は木っ端微塵に飛び散り、中にいた人の頭部が電柱に引っかかるという惨劇に見舞われた。もう1つは大蓮寺境内にあった備蓄倉庫を直撃、もう1つは当代島の稲荷神社に炸裂、破片がその場にいた人達の人体を切断し絶命させている。軍事的建物がない浦安は爆撃されないと楽観視していた町民は、今回の爆撃で大きなショックを受けてしまう。
●昭和20年02月17日の上空交戦
浦安町上空で日本軍とアメリカ軍が交戦、1基の零戦が海楽園沖(現・海楽)に墜落した。直ちに陸軍部隊が救出に向かうが、操縦席では頭を撃ち抜かれ壮絶な死を遂げたパイロット横たわっていた。
●昭和20年02月19日の空襲
船橋方面から浦安にB29爆撃機が飛来、当代島を中心に空爆をおこなった。爆弾は防空壕を直撃、中にいた幼い子を含む親子3人などの5人は爆風に吹き飛ばされ見るも無残な死を遂げた。
●昭和20年03月09日の空襲(東京大空襲)
夜9時半から鳴り響いた空襲警報は翌2時半まで続いた。南の風が強く吹きよく晴れた夜だった。房総方面からおびただしい数のB29大型爆撃機が浦安上空を通過、東京に焼夷弾の雨を降らせた。
たちまち、西の空は赤く染まり、無数B29大型爆撃機の姿だけが不気味に見えていた。続々と飛来するB29大型爆撃機は浦安にも焼夷弾を投下、しかし市街地を離れた場所だったので奇跡的にも被害はなかった。
一夜明けると、東京方面から被災者が殺到した。浦安では被災者誘導所を設け、炊き出しなどをおこない負傷者には応急救護をおこなっている。
●昭和20年05月25日の空襲
B29大型爆撃機による波状攻撃を受け、浦安でも大型焼夷弾4発が投下され火災が起きる。火の海となった東京から意気揚々と帰還するB29大型爆撃機の1機が、葛西の高射砲の攻撃により浦安沿岸(現・高洲)に墜落した。
空襲の精度を上げるため低空飛行していたB29に向けて、葛西高射砲第115連隊第1大隊が攻撃し、一機に命中。被弾したB29は煙を上げながら市川方面を弧を描くようにどんどん高度を下げ、浦安に迫ってきた。火達磨状態のB29は浦安の町をかすめ沿岸部に墜落している。
アメリカ軍の空爆について
浦安に落ちたB29大型爆撃機 (実際に見た人の記録です)
昭和20年05月25日、アメリカ軍は3回目になる東京への大規模空襲をおこなっていた。3月9日の東京大空襲に継ぐ激しい空襲で470機ものB29大型爆撃機が飛来していた。
この日、アメリカのB29大型爆撃機は、東京の山の手を中心に爆撃し帰路は浦安上空を通過する航路であった。飛距離が低くく、性能が悪いと言われていた葛西高射砲第115連隊第1大隊(現在のホームズやヨーカドーがあった場所)はいつもの様にパンパンと上空にむけて射撃を行ってたがどれもB29大型爆撃機には届いていなかった。
しかし、爆撃精度を高めるため低めに飛んでいた1機に高射砲が命中、黒煙を上げた機体はみるみる高度を下げていった。旧江戸川から行徳方面にぐるりと円を描くように煙を上げ飛んでいくB29大型爆撃機はついに浦安東方沖(沖の百万坪)現在の高洲・今川付近に墜落した。
一夜明けて翌日、漁師たちはこぞって船を出し墜落現場を見に行くと、パイロットを含む乗り組員5~6人は全員死亡していた。漁師たちは竹槍や棒で死体を突っつくなど乱暴に扱うが、これを知った行徳の住職が戒め、パイロットたちを手厚く葬っている。終戦後、アメリカの調査団により墜落現場など検証が行われた際、手厚く葬られたことに感謝が送られているといわれている。
浦安が狙われた意外な理由
当時の浦安は都心にほど近い場所なのに、まるで時間が止まったような、のどかな漁村のような町であった。小さな駐屯地はあったが、目立った軍事施設が無いのに百数十回の空爆を受けているのはなぜか?その答えは浦安の産業である海苔の養殖にあるといわれている。
海苔を天日干しする際、よしずに海苔を並べるが、これが上空から見ると高射砲の砲台に見えたようで過剰なまでの空襲が行われたといわれている。 また、旧江戸川にある妙見島が大型空母に見えたため、激しい空爆が行われ浦安も巻き添えになった説もある。
戦争の終結へ
国民義勇隊を召集せよ
太平洋戦争末期、日本本土決戦が濃厚になった昭和20年6月下旬、軍当局からある指令が下った。それは、本土に上陸してくるアメリカ軍を阻止するための国民義勇隊を結成するということであった。15歳から60歳までの男子、また、17歳以上40歳までの女子が国民義勇隊とする命令が下った。浦安では3400人が対象で町民の約3分の1という多さであった。
浦安の国民義勇隊の任務は、九十九里浜や鹿島灘から上陸してくるアメリカ軍に備え、塹壕や防空壕を掘り迎え撃つというものであった。 8月、浦安では国民義勇隊の編成が終わり出発を待つだけの体勢であったが、8月15日終戦という形で出動すること無く終わっている。
若潮公園に佇む平和の像
この『浦安の歴史』を特集したページは、浦安市の公式のホームページではございません。多くの文献や資料、浦安郷土博物館内の展示物や資料、代々続く漁師の家系(管理人)の親戚の証言など総合的に作り上げたホームページです。