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浦安のアイコン浦安史上最悪の連続海難事故

浦安の歴史 海難事故

六人船3隻が浦安沖で消息を断った。16人が犠牲になった浦安最悪の海難事故とは?


明治13年(1880)10月におきてしまった海難事故は浦安史上最悪の海難事故といわれている。 ほぼ無風だった穏やかな10月の秋空に何があったのか?

浦安のアイコン事故の記録を振り返る

浦安のアイコン穏やかな秋の空が一変

明治13年(1880)10月。この季節はちょうど六人網の最盛期で、漁師達は多忙を極める日々が続いていた。六人網とは、その名の通り 六人が組んで漁船を操作する漁法である。毎年暖流にのって東京湾を回遊するイワシやコハダを獲っていた。

10月3日、当時はいつもと同じように朝早くから漁をする船が出ていた。代々続く六人網の網本である、金子六右衛門の次男・啓太郎と 16人の乗り子達と共に3隻の六人船に分乗し漁にでていた。 この日、朝のうちは晴れたり曇ったり、南東の風が2mと穏やかな日で「今日も大漁だな」と乗り子達は話し、網を海中に下ろしていた。

昼を過ぎたころになると驟雨(夕立・にわか雨)が降り、次第に雨足が激しくなっいった。しかし、せっかく漁に出てイワシが目の前 にいるのに、これくらいの天気では帰れないと漁を続けた。にわか雨だし、すぐに天候は回復すると誰もが思っていた。

浦安のアイコン雨風が強くなる中、波間に消えていく命

しかし、雨風は強くなる一方なので、三枚州(現・旧江戸川河口、TDLのホテル群の沖)にイカリを下ろし、天候が回復するのを待つ事 にした。この三枚州は、干潮になると干潟になるぐらい浅く水位は2mなので、海が時化ても大丈夫と思っていた。

夜、天候は回復するどころか、暴風雨になり、25mを超える烈風はうねりを伴い、3隻の船は、まるで木の葉のように翻弄された。船が 壊れることを察知し、イカリを外すと激しい暴風により、沖に沖にながされてしまった。ただ船にしがみつくしかない乗り子達は、次々 と力尽き転覆する船もあった。

一方、転覆を食い止めようと自ら海に入り船を立て直そうとする者がいたが、時間が立つにつれ、一人、 また一人と波間に消えていった。

浦安のアイコン無情な結末 悔やまれた天気予報の普及

暴風雨が止んでくると十万坪(現・境川河口)に流されていたことがわかり、陸に戻ろうとするが西風が強く、陸に着いたのは船橋付近 まできてしまった。そこで、ごぜき船(運送船)に助けられたのだが、助かったのは1人という現実だった。残る15名の遺体は後日発見されるが、金子六右衛門の次男は最後まで見つからなかった。

16名の犠牲者を出してしまったこの海難事故の原因は猛烈に発達した低気圧によるもので、時期を考えると台風の影響と考えられる。 この時は、天気予報(明治18年開始)がなく漁師の長年の勘がたよりだった。

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