意外な形で燃え広がった紺屋の火事
隣町で発生した火災は違った形で浦安に延焼。死者まで出る抗争劇に発展した事件とは?
旧江戸川を挟んで浦安の隣町である長島町(葛西)で発生した火事は思った以上に燃え広がっていた。
消火の応援に呼ばれ、浦安からも船で上陸しようとするが、その時に起きてしまった些細な事が大変なことになってしまった。
事件の記録を振り返る
火災発生
明治元年12月(1868)末頃、隣の長島町(葛西)の紺屋(染め物屋)で火事が発生した。当時、消化能力が不十分で、火事は何よりも恐ろしく、その地域の人々はもちろん、隣町の人々皆で消化するのが慣例であった。この時も、長島村から応援の依頼があり、堀江村と猫実村の若い衆は船に乗り現場に急いだ。
アクシデント発生 大喧嘩に発展
浦安の若い衆は火事場に近い川岸に着き、はしごをかけ、いざ岸に上ろうとした。すると上から石や瓦が降ってきて、危なくとても上れない状態であった。
混乱する火事場であるし、アクシデントであったかもしれないが、これに若い衆は怒り、岸にいる長島町の住民と口論を始めた。 血の気が多い漁師達は、火事場である事がボルテージを上げ、口論はやがて大喧嘩に発展、一部が浦安側に戻り助けを求め、三村(当代島村・堀江村・猫実村)の大勢の若い衆が船に乗って応援に駆けつける事態になってしまった。
大喧嘩でついに死者が…
大群が船に乗って押し寄せるのを見て長島村側は驚き、近隣に助けを求めるため一度その場を退いた。 この時とばかりに、上陸した浦安側の三村の若い衆は、逃げ惑う長島町の若い衆を追いかけ回した。しかし、その後、駆けつけた隣町ら大勢の長島町側に取り囲まれてしまう。土地勘が解らなく逃げるしかなかった浦安側は急いで船に戻り、間に合わなかった者は泳いで川を渡った。
その後、浦安側に戻った時に大変な事態が発覚する。長島村側から2人が帰っていなかったのだ。翌日になり一人は、向こうに移住した人にかくまってもらって遠回りして帰ってきた。ただ、一人は旧江戸川の底で水死体となり見つかってしまったのだ。
ついに決闘へ 一触即発の話し合い
検死の結果は、外傷がなく、逃げ遅れた結果、川に飛び込み、冬の寒さで凍死したと判断された。もちろん、この結果に浦安側は納得せず長島町の連中に川に投げ込まれたとか、殺されてから川に捨てられたという憶測が飛び交った。怒りを抑えきれない浦安側の若い衆は、ついには決闘を決意する。
この事を耳にした浦安側の有志は、決闘を避け円滑に解決するため、方々に親交が厚い3人に頼み込み、長島村に向かわせた。髪を大たぶさ(ちょんまげ)に結い、大小二つの刀を腰に差した格好に、待ち構えていた長島村の若い衆はひるみ、話し合いはすんなり始まった。
長島村が詫び状を一筆書くということでまとまった話し合いだが、死人が出ている浦安側はまだ納得しなかった。そのため後日、両村の代表者を行徳の料亭に招き、食事会を開いてすべてを水に流すことでこの話はようやく幕を閉じたのであった。
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