浦安三社祭(浦安三社例大祭)の歴史は、公式的記録があまり残っていません。下記に記載した歴史も、実際の歴史とは違っている可能性があります。浦安の三社は、地域別に歴史があり歴史的観点も違っている事をご了承ください。
みなさんご存知の通り、浦安は埋立てで大きくなった町です。元の土地から比べると埋立により4倍にもなりました。今回の浦安三社祭りはこの、もとからある土地『元町』で行われます。
浦安市の前身である浦安町は猫実村、堀江村、当代島村が合併しできたもので、この3つの地域は地名として今も残っています。この3つの地域ににはそれぞれ鎮守様が存在します。猫実には豊受神社、堀江には清龍神社、当代島には稲荷神社があり地域の人々の憩いの場となっています。
かつての祭りといえば10月に行われていた祭礼(豊年祭りのようなもの)を指していました。清龍神社は10月15日前後、豊受神社は10月16日前後、稲荷神社は10月22日前後と、秋の収穫が終わった頃に祭礼が行われていました。
この祭礼とは別に数年に一度、6月などに臨時大祭(御遷宮祭)が行われていました。これが後の、浦安三社祭を指していると思われます。かつての臨時大祭には神輿がなく、登場したのは大正時代(大正14年が有力)といわれています。地域の若衆が、神輿を担ぎたいために一日一日少しずつ貯めた金で、やっと神輿を持つことができたのです。
臨時大祭が盛大に行われるようになると、10月の祭礼は次第に規模が小さくなって、何時しか浦安の祭りといえば6月の大祭(後の浦安三社祭)を指すようになっていきました。
浦安三社祭(臨時例大祭)を調べると、『御遷宮祭』というキーワードが出てきます。(遷宮とは、神社の本殿の修理や造営の際に、神体を異なる本殿に移す事を意味ししています。)
清瀧神社は、明治29年、大正12年。豊受神社は大正12年、稲荷神社は明治41年に盛大に行われました。
稲荷神社の御遷宮祭では、境内に櫓が組まれ、その上に新しく作製したベカ舟を載せ、お餅を振る舞ったり、仮設舞台では神輿や芝居が奉納されたとい言われています。この明治41年の神輿が浦安で初めて登場した神輿に当たるかは詳細は不明です。
時は終戦直後、浦安は貧困の中にいました。当時は17、18歳になると地域の若衆宿(青年団のようなもの)に所属することが慣わしで、終戦直後は貧しさから、この者達は憂さ晴らしと言わんばかりに、祭りになると荒れていました。
昔も今も寄付金で成り立っている祭りですから、あの店は寄付金が少ないという理由で神輿が突入し店内を荒らしたり、あの家は神輿を出すのに反対したという理由で玄関や屋根を壊されたり、雰囲気を壊す人がいると神輿を担いでいる途中でも川に落とされたりと、当時つけられた別名、喧嘩神輿、暴れ神輿がぴったり当てはまるほど荒れた祭りでした。
上記で柔らかく書きましたが、他にもいろいろなエピソードがあります。(あくまで言い伝えです。)
■神社の対立:
境川沿いでのエピソードですが、ある神社の神輿と、ある神社の神輿が境川を挟み睨み合いを始めてしまい、ついに橋の上で衝突してしまいました。神輿と神輿をぶつけ会い、押せや引けやのもみ合いが繰り広げ、血が昇った担ぎ手達は、もみ合う人を境川にぼっぽる(投げ込む)人もいたそうです。
■家屋全壊:
上記で玄関を壊したと書きましたが、中にはこんなケースもありました。神輿が進む先で、寄付が少ない家を見つけると、若衆達はなんと土台に神輿の担ぎ棒を差し込み、テコの原理で家屋を持ち上げ、土台ごと壊してしまったのです。(今は決してこのようなことはありえません)
■神輿放置:
ある神社では、お祭の途中で暴れだし神輿をあちらこちらにぶつけ担ぎ棒がすり減ってしまう事があったそうです。祭がままならくなった神輿は担ぎ手が離れ、ついには神輿を放置してしまう事態に…。最後は神輿を引きずって帰ったそうです。
血気盛んだったとはいえ、あまりに荒れる祭りは警察が常に付いて歩く異様な祭りになってしまったといいます。その後の祭りのことは下に記述していきますが、今はこのようなことは決してありません。また、このエピソードはうわさ話なども含まれているかもしれません。
喧嘩神輿・暴れ神輿ということばかりクローズアップされる浦安三社祭ですが、第二次世界大戦後の浦安は空襲の被害などもあり、街全体が沈んだ空気の中にありました。
戦後すぐ、昭和21年の祭りでは、そんな空気を少しでも明るくさせようと、おしろいを塗った男たちが神輿を担ぐなど陽気な雰囲気が生まれました。
本来の祭りは豊作祈願はもちろん、厄払い、悪鬼払いなどいろいろな意味があります。終戦当時、娯楽という娯楽が無かった時代の祭りは『祭があるから生きていける』そんな、祭り好きである浦安っ子の希望のような熱き思いがありました。
時は昭和33年、浦安で大事件が起こります。旧江戸川の水がどす黒く変色してしまったのです。原因は上流にある本州製紙工場であることを突き止めた漁民たちは工場排水を止めるよう何度も陳情したのですが排水は止むことなく、ついには工場側と衝突してしまうことになります。警察機動隊まで出動し逮捕者を複数だす大事件に発展してしまったのです。結果は日本の環境問題意識を大きく変える事件にまでなってしまいました。
⇒本州製紙工場汚水放流事件の詳細はコチラから
高度成長期、東京湾は水質汚染が悪化が進んでいました。その中で起きた本州製紙工場事件により、浦安の漁師たちは帰路に追い込まれてしまいました。これから漁業はどうなっていくのか?若衆達は、将来の不安などから不満がたまり、その鬱憤を祭で爆発させてしまいます。あまりに荒れる祭りは、昭和36年で中止に追い込まれてしまいました。
(中止の原因は他にも、不況から寄付金が集まらなかったという財政面の大きな要因もあります)
臨時大祭が復活したのは昭和49年、13年ぶりの大祭でした。祭りを中止させてしまった思いから、各神社を別々のルートに分け、管轄地域を細分化、世話人を複数配備するなど、神輿が出ても暴れないよう注意が払われました。
喧嘩神輿・暴れ神輿といわれていた祭りは、その血気盛んな情熱はしっかり受け継がれつつ、誰もが参加しやすい祭りになっていきます。その結果、各地域で若衆や町内会、商店会から多くの神輿が出始め、ピーク時は100基以上の神輿を数えました。
2000年(平成12年)名前を臨時例大祭(大祭)から、より親しみを込め呼びやすい『浦安三社祭』と呼び名を変えます。近年は、より派手な飾り付けや演出など行われるようになり、浦安の祭り好きの血はは今も変わらず受け継がれています。
2016年、史上初の試みが行われました。浦安市の市制施行35周年と新庁舎完成を祝賀して、浦安三社による合同渡御が行われたのです。上記で書いた通り、浦安の三社神輿が揃うと一触即発な雰囲気になり、何が起こるかわからないといわれていたのですが、各神社の総代長、総代、世話人、担ぎ手達など各関係者の、枠を超えた協力、綿密な計画により合同渡御が現実になったのです。
浦安三社の神輿が横に揃う、合同神酒所の荘厳な空気、そして連なって渡御される各神社による宮神輿の迫力、どの場面も目を話せない歴史的な1日となりました。
祭り好きな歴代の先輩たちには、生ぬるい事やってんじゃねーよ!っと叱られてしまうかもしれませんが、日本各地の祭りで担ぎ手が減っている事などを考えると、このような目に見える一体感を得ることができたのは、今後の浦安三社祭にとって大きな収穫だったと思います。
この浦安三社合同渡御が、新たな歴史に刻まれ、浦安三社祭がこれからも歴史的、文化的にも受け継がれる大切なものであるよう願っています。